研医会通信 61号 2011.2.15 |
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2011年 科学技術週間 イベント この催しは修了いたしました。ご来場、ありがとうございました。 「『傷寒論』とその関連本 その3」 ―東洋医学の大きな柱 『傷寒論』を読み解いてきた歴史をみる (展示会) 研医会図書館では、毎年文部科学省の科学技術週間にあわせて本の展示会を行っております。
* 図書館ご利用の方は電話にてご予約ください。 03−3571−0194(代表)
1.『傷寒撮要』 姑蘇 慕松繆 存済 集 刊記なし 宮内庁書陵部に『傷寒撮要六卷』(明 慕松繆 撰 刊本 2冊)があり、また国立公文書館内閣文庫には『新刊傷寒撮要六卷』 (明 戮存濟 江戸 寫 2冊 )があるが、当図書館のものは1冊30葉のみの刊本で、版心に「蘭室叢書 傷寒撮要 (数) 甲集」と印刷されている。巻頭には「傷寒撮要 姑蘇慕松繆存済集」とあって、序文なしに「醫八誤用藥傷八死」が始まる。また跋文や刊記もない。中国、江蘇省蘇州市近郊に姑蘇山という山があり、古くから詩などで有名な地であるらしい。慕松繆はその辺りに住んでいた人物なのだろうか。本の内容は死に至る症状、症状と病位の解説、あるいはどのような症状の時にどのような治療をするべきか、禁忌の薬、「蒸臍法」「熨臍法」等の変わった治療法などが書かれている。表紙には「河野薬室」の角印、巻頭には「潤杏樓蔵書印」「森○図書○」「谷川蔵書」の3つの蔵書印が押されている。
2.『編註金匱要略』 張仲景:著、沈明宗:編註 享保17年(1732) 題箋は『編註金匱要略』。編者は沈明宗。字は目南,号を秋?という清代、浙江嘉興の人で著名な医家。『傷寒六経弁証治法』の注釈も書いている。目録の最初に「?(すい)李沈明宗目南編註」とあるが、スイ李は浙江省嘉興が李の産地であることから、かの地を?李と呼ぶようになったという。大観堂の扉は『金匱要略玉函経』、康熙31年の序のあと、長岡恭齋の享保13年の序文が続き、その後目録、本文となる。長岡恭齋は『眼目精要』の校正も手掛けた人物。版心にもそれぞれの病名が入っている。
3.『作剤鑑(傷寒論正剤)』 劉棟田良甫:著 安永3年(1774) 序文は「安永2年10月、茅渤 倪懋績(げいぼうせき)撰」となっている。中国の小説に『春臠拆甲 』(しゅんれんせっこう?)というものがあり、著者は「茅渤 活活庵主人撒?」と名乗り、その文には日本式の漢字が多く使われているため、著者は日本人だろうと考えられている。倪懋績と活活庵は同一人物なのだろうか。日付けの書き方も本書は「十月上浣」、『春臠拆甲』は「仲秋下浣 」となっており、普通日本の書では「旬」を使うことの多いところを「浣」としている点も似ている。本文の最初には「作剤鑑巻之上」とし、小字で「傷寒論正剤」と題がつけられ、「筑前 劉棟田良甫著」とある。この著者は『傷寒論劉氏伝』という本を著すほか、京大富士川文庫には「棟田良 写」の『劉氏活痘法』もある。140種の方剤を『傷寒論』の編次の順に並べており、「正剤」として基本の分量を示し、「変剤」として変化をつけられる生薬の最低と最高の量や水の分量を示している。
4.『傷寒論綱目』 沈金鰲:輯 乾隆39年(1774) 沈金鰲(ちんきんごう)。字は?香iせんりょく)、号は汲門、再平、尊生老人、江蘇省無錫の人。『傷寒論綱目』の他に『脉象統類』『諸脉主病詩』『雑病源流犀燭』『幼科釈謎』『婦科玉尺』『要葯分剤』などの著作がある。清代の医家。自序の中で、張仲景の『傷寒論』から病を陰陽や六経で分析することが始まったが、仲景に対して「外感は治せるが、内傷の治し方はしらない」とか、「仲景の法は見るべきだが、方は取り入れるべきでない」という批判がある。だが、法と方は通じているもので誠がある。自分は20年来百余人の傷寒に関する書を読んできて、ここに綱目一書を著した、と書かれている。
5.『傷寒譯通』 鈴木 定寛 温卿 撰 天明7年(1787) 天明3年(1783)の浪華 奥田元継の「傷寒譯通序」、天明4年(1784)浪華 鈴木定寛の「傷寒譯通自序」、天明7年(1787)播陽五島恵迪の跋、著者である鈴木定寛(旭山)の「例言」が巻頭につづく。例言には、「此書ハ仲景ノ二書ヲ通俗スル者ト知ル可。其初ニ先賢ノ謂所病論脉論等ヲ出シ、次ニ和寒温汗吐下ノ六ヲ挙テ剤ノ大概ヲ示ス」とあり、薬名、主治、方、注が簡潔に書いてある。「和寒温汗吐下」の6つの治法はそれぞれ○の中に文字を入れて、マークとして方剤を分類している。小型(13.0×18.3)ながら表記に工夫をしてまとめている。活字もすっきりしており、カナ交じり文で、ふりがな付きの読みやすい本である。
6.『傷寒論集解』(仲景全書) 張仲景著 王叔和・撰 寛政元年(1789) 4冊めまでの題箋には「傷寒論集解 ○巻」とある。趙開美の「刻仲景全書序」、厳器之の「註解傷寒論序」、未詳氏の「傷寒論後序」、林億らの「傷寒論序」、国子監の元祐牒文、「医林列伝」、「凡例」、張仲景(張機)の「傷寒卒病論集」序、「仲景全書傷寒論目録」をおき、その後本文となる。6冊のうち、4冊めまでが『傷寒論 十巻』で、5冊めは『金匱要略 巻上』、6冊めが『金匱要略 巻中下』である。 『金匱要略』はケ珍の「金匱要略序」、林億らの「金匱要略方論序」、「諸家評註姓氏」、「仲景全書金匱要略方論目録」があって、本文となる。本文の最初の4葉(臓腑經絡先後病脉證第一)だけ美しい印刷となっている。版木が取り替えられたのだろうか。
7.『傷寒論国字辨』 浅野徽 元甫:著 寛政3年(1791) 和刻の『宋板傷寒論』寛政九年(一七九七)版を校閲した浅野元甫が著した国字による『傷寒論』解説書。浅野元甫は尾張の人。序文も凡例も浅野徽その人が書いている。尾張藩に40年も勤め、養老谿谷に帰ったが、辺鄙な土地で医師のいないことを憂い、『傷寒論特解』を著した。これをさらに噛み砕き、初心者にも判るよう易しい言葉づかいで書いたのがこの『傷寒論国字辨』であるらしい。凡例には「文辞鄙俚にして雅言を用いず。其解しやすからんためなり」としている。編次は、巻1に総論をおいた後、太陽病篇が巻2から巻7まで続く。巻7までが上篇で巻8が陽明病、巻9が少陽病篇太陰病篇、巻10が少陰病篇、巻11が厥陰病篇となっている。冊7。巻1の裏表紙には「附録」として自分の説である日光人参の効能が朝鮮人参に劣らず、広東人参の効能は不明、という意見について、田村玄臺子も同意見であることを記している。
8.『家刻傷寒論』 廣岡 元 文台 寛政8年(1796) 巻頭には「安永乙未(1775) 廣岡元(文台)」の序、「享和壬戌(1802)秋九月 伊州藩衛官東門岸勝明」の序、「文化丁卯(1807)正月 川越正淑大亮」の序、「寛政八年(1796) 正月 廣岡元」の序がついている。森?外の『北条霞亭』に霞亭が医学を廣岡文台に学んだことが延べられ、「文台の事は多く世に顕れてをらぬが、呉秀三さんの検する所に拠るに、宇津木益夫の日本医譜に、名は元、字は子長、伊賀の人、古医方を以て自ら任じ、名を四方に馳す、著す所家刻傷寒論ありと云つてある。」と綴っている。岸勝明については、津藩の用人・加判奉行・加判家老などを歴任した岡本聴雨(1749〜1814)の漢詩・和歌・俳諧の文学サロンともいうべき聴雨山荘「佯聾山荘」の漢詩本にその名がある。また、川越正淑(大亮・号は衝山)(1758〜1828)
は、中西深斎に古医方を学んだ人で、文化6年典薬寮医師となった。
9.『傷寒外傳』 橘 南谿 (宮川 春暉):著 寛政8年(1796) 橘南谿は伊勢出身の江戸後期の儒医。富士川游の『日本医学史綱要』では漢・蘭折衷派として紹介され、三谷笙洲の『臓腑真写解体發矇』に附録として南谿の解剖所見がついており、また『雑病紀聞』での発病理論が「やや精緻」であると評している。南谿は14歳で父を亡くし、19歳の頃、母とともに京都に行き、医学を学んだ。10年ほどの後、母が亡くなると臨床医の見聞を広めるため旅に出て、後にその旅行記を『西遊記』『東遊記』『東遊記後篇』『西遊記続篇』として出版した。また、31歳のとき、伏見において小石元俊のもとで刑死人の解剖を執刀、その所見を『平次郎臓図』に残している。著書には『痘瘡水鏡録』
『傷寒論邇言』、『傷寒論分注』 などの医書や『薩州孝子伝』『北窓瑣談』 などがある。本書は、さまざまな医学用語についての解説を丁寧に記したもので、西洋医学の知識、伝統漢方の考え方、解剖で実見した内臓の様子など、さまざまな要素をもって書かれている。
10.『傷寒論正義(傷寒論精義)』 (原著)吉益猷(南涯) 寛政8年(1796) 筆記本 著者の吉益猷(1750−1813)は吉益東洞の子。字を修夫、号を謙斎、後に南涯とした。24歳で父亡き後を継ぎ、43歳の頃大坂の家を弟に託して京都に住まいした。この頃から気血水説を唱え、父東洞が遺した万病一毒説の行き過ぎを修正して傷寒・金匱を解釈した。この父子の学説は広く世間に受け入れられ、今でも日本漢方に影響を与えているといわれる。『気血水薬徴』『観證弁疑』『方庸』等の著作や、『成蹟録』『続建殊録*』などの治験録がある。当館は『傷寒論正義』と題される1冊本と2冊本、また『傷寒論精義』と題する1冊本と3冊本を所蔵するが、『正義』と『精義』で少々文が異なる。3冊本などは、写本を作った上で、これをたたき台に文章を黒く塗りつぶしたり、文字を直したりしているようである。
11.金匱要略聞書 吉益 南涯:講説 伊藤 祐義忠岱:筆 巻頭には「金匱要略聞書巻一 南涯吉益先生講説 /信濃 伊藤祐義忠岱筆記」と書かれ、続く「臓腑経絡先後病脉証第一」は各章の解説をし、「痙湿?病脈証治第二 」からは条文を大文字で書き、その解説を小文字で書いて読みやすくしている。筆記者の伊藤忠岱(1778−1838)は 信州出身、江戸で太田錦城に儒学を習い、京都にて吉益南涯に医術の教えを受けた。名は祐義(すけよし)。忠岱(ちゅうたい)は字。通称は大助。号を鹿里また仰継堂という。非常に多くの書物を書写したと伝えられる人で、この書も非常に美しい楷書で書かれており、江戸の儒医たちの勉強家ぶりが伺える。『孝経国字解』『傷寒論国字解』を著した。この本の成立はいつの頃か不明であるが、師である吉益南涯が63歳で亡くなったのは忠岱35歳の1813年であるから、それ以前と思われる。
12.『傷寒薬品体用』 川越 正淑大亮(衡山):著 寛政9年(1797) 川越衡山(1758−1828)は中西深斎に師事した。その娘を妻とし、養子となりかけたが、『傷寒論』に対する考え方に相違があることで姓をもとに戻して、別に一派をたてた。たとえ義父となる人であっても、医学に対する考えが異なっていては訣別を選ぶという潔さに驚く。「王門縉紳の使介陸続門に満ち、郡鄙市井の病客来り集まりて庭に溢るという。」(富士川游『川越衡山』)と伝えられるところをみると、身分の上下を問わず、医師として意欲的に臨床治療にあたった人なのではないだろうか。
13.『雑病記聞』 橘 南谿 講義 片山 韶 筆記 文化2年(1805) 序文には、雑病と傷寒病の理は別にあるわけではないが、弟子たちが雑病についての講義を請うので講義し、その折の講義録を片山氏がまとめてくれたということが語られている。目録は傷寒、中風、時疫、痰、?嗽、脚気、労咳と続き、121の項目を挙げている。最初の「傷寒」では、この本が雑病を扱うものではあるが、古今の薬方書で開巻の第一に傷寒を出さないものなく、これを略するのも「首尾をせざるに似たれば」、初心者のためにもう一度傷寒病について述べる、として講義を始め、約10葉をこれに割いている。序の中でまず七種を上梓するとあるとおり、この三冊本では7番目の労咳までを収めている。筆記者の片山韶(あきら)(君澳)は『麻疹探嚢方』という本を寛政11年(1799)に出している。
14.『傷寒論解故』 鈴木維正(目耕道人):著 文化2年(1805) 昨年、鈴木素行良知(1761ー1816 )著の『傷寒論觧故』を出陳したが、同じ書名で著者も「目耕道人」を朱書で直してあり、「鈴木維正」となっている。著者は江戸の本草学者で、田村藍水の弟子。『医海蠡測』『本草紀聞』の著作がある。同じ書名ではあるが、文章は大幅に変更されており、文字も異なる。昨年のものは原稿箋に書かれており、今回出陳しているものが後に作られたより正式なものかと思われる。「按・・・」と自らの考えを述べる部分も今回の本の方が多く、書名・人名に赤線を引き、キーワードを目立つように【】に入れるなど、表記の工夫もなされている。昨年度のものは年月日の記入はなかったが、こちらは7冊めの巻末に「文化乙丑(2年=1805)六月東都 鈴木維正」と記されている。
15.『傷寒論章句』(吉益東洞章句) 賀屋敬恭安 文化8年(1811) 賀屋恭安(1779-1842)は萩藩の医師。名を敬、号を澹園・榧陰とした。藩主斉煕の側医を務める一方、藩の医学館を創設して、その初代館長となる。著書には『傷寒論章句』のほか、『所続医断』『好生緒言』などがある。この本の出版されたのは文化8年(1811)で、吉益東洞の没年である安永 2年(1773)から、38年も経っている。東洞の子・南涯(名は猷、字は修夫)もすでに60を過ぎており、2年後の1813年には亡くなってしまう。巻頭にはこの南涯の序文がおかれており、3編の序文の後につづく「傷寒論章句例」では、東洞以来のこの学派の基本姿勢が細かに書かれ、経絡の説などは皆空理であり、後世の人の竄入だとして、その注釈を排除すると記されている。
16.『傷寒論廣要』 多紀元堅(1795-1857) 文政10年(1827) 序文は元胤が書き、凡例は元堅が書いている。凡例に続き「傷寒廣要採ショ(てへん+庶)書目」があり、161の書名が連なっている。元簡(桂山・櫟窓)、元胤(元簡の三男・紹翁)、元堅(元簡の五男・サイ庭)と続く多紀家の研究者たちが読んでいた膨大な資料が伺える。多紀家の本家は三男元胤が継ぎ、元堅は分家した。その著作は父、元簡同様に『傷寒論述義』『金匱要略述義』を始め多数あり、『医心方』『備急千金要方』の校勘もしており、江戸医学館の成果としてしられている。この書は、文章に返り点や訓点が施されて、文字も美しい。中国においても高く評価された江戸末の考証学者たちの業績は、この後森立之に受け継がれていく。
17.『傷寒論講義』 華岡青洲:口授 文政10年(1827) 自ら創薬した通仙散(麻沸散)を内服させて、世界で初めて全身麻酔の外科手術をしたことで有名な華岡青洲(1760-1835)は、「内外合一 活物窮理」を唱え、オランダ医学による外科と同時に、漢方による内科臨床についても研究した。十味敗毒湯という方剤、中黄膏、紫雲膏という膏薬を創り出して、現在でもその処方が使われている。
18.『傷寒論正文解』 和田東郭:口述、 加門篤恭輔:校訂 天保8年(1837) 和田東郭(1742−1803)は名を璞、字を韋郷または泰純。東郭は号で、含章斎とも名乗った。高槻藩の藩医の三男で、幼少の頃より伊丹の竹生節斎、大坂の戸田旭山に入門して後世方を学び、26歳の頃、吉益東洞の元に行き、古方を学んだという。50代半ばで朝廷の医官となり、法橋、法眼にも進んだ。後世方と古方の両方を学んだ東郭は、いずれにも偏ることなく折衷説を取って治療にあたった。この書も考証派の弊に陥らず淡々とその実践的医学について述べていると評されている。自ら著作をすることには消極的であったらしく、『蕉窓雑話』『蕉窓方意解』『導水瑣言』『東郭医談』『東郭腹診録』はいずれも門人の筆記録として出されており、この『傷寒論正文解』も口述したものをまとめた本となっている。
19.『古方薬品考』 内藤尚賢:著 (朱蕉園) 金陵 天保12年(1841) 著者の内藤蕉園について、『天保医鑑』に「内科、薬品家博学善詩文。内藤主馬、剛甫。藤原尚賢字仲号金陵又蕉園。堺町夷川北。著書、古方薬品考五冊、続薬品考髯十冊、備急良方三巻。」と伝えられている。京都の御典医として力のある人物であったようで、この『古方薬品考』に添えられている図は京都画壇の各派の名人に描かせており、非常に美しい本草の図となっている。『傷寒論』に取り上げられた220余種(本書の目次項目数は234)の薬品について解説している。商人らが扱う生薬が必ずしも本物ではなかったり、品質の劣るものが増えていることに憂慮をし、医家薬家は良品を選ぶ目を持ち、薬性について知識を深め、治療に俊功を挙げることを望んで、本書を編纂したということが、序文に語られている。巻頭に「薬性標目歌」という歌訣があり、それぞれの生薬の薬性を覚える助けとしている。
20.『金匱玉函要略疏義』 喜多村直寛 文久元年(1861) 喜多村直寛(1804-1876)は多紀元堅・小島宝素とともに並び称せられる考証学者。代々幕府に仕える医師の家に生まれ、その8代目として江戸末期の幕府で医官を務める。字を士栗、通称を安斎、安正。号は栲窓、晩年には香城とした。安積艮斎に就いた後、18歳ごろ医学館に入り、翌年には首席となったという。10年後には家を継ぎ、さらに10年後の38歳のころには医学館教諭となる。『医方類緊』『太平御覧』の出版、『医心方』の校勘、『傷寒論』『金匱要略』関連書物の刊行など、その業績は多い。『金匱要略疏義』は『傷寒論疏義』とともに、その代表的な著作。晩年は嗣子を亡くす不幸に見舞われるが『老医巵言*』『五月雨草紙』『医学啓蒙』などの著作を出し続ける。 *巵言=「巵」はまるいさかずきで、入れる酒の量によって傾きが変わるようにその時の条件でどうにでもなる意)対象に応じて自由に変化する表現。臨機応変の言。(日本国語大辞典より)
21.『雑病翼方』 (原著)明治 2年(1869)浅田 惟常:纂 明治15年(1882)加藤 慶寿:写 『金匱要略解説』(東洋学術出版社)を著した何任氏は、その前言の中で、「『金匱要略』は、要するに分類が簡明で、弁証が適切で、治療法が厳格で方薬の組成が精密であり、理法を兼備した、実用にかなった本」と述べている。この『雑病翼方』はその『金匱要略』について浅田宗伯(1815−1894)が解説した本の写しである。浅田宗伯は、頼山陽に儒学を学び、江戸医学館で多紀元堅・小島尚質・喜多村直寛らに学んだ後、徳川家の典医となり、明治期には宮内省の侍医となり活躍した人物。幼名を直民、後に惟常。字は識此、号を栗園と称した。またその薬室名は「誤らしむること勿れ」より、「勿誤薬室」と命名した。『勿誤薬室方函口訣』『橘窓書影』『古方薬議』『脈法私言』『傷寒論識』『雑病論識』『皇国名医伝』『先哲医話』など200巻におよぶ著作がある。
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