「○(=てへん+斉)下術ハ既ニ二千年来眼科ノ内翳ヲ治スル術トシテ世二久シク称用ス。而後千八百年代ノ半ニ至リ・達非爾ナル者一術ヲ創シテコレヲ剔出法卜名ツク。コレヨ
リ○(=てへん+斉)下ヲ古法卜称シ、剔出ヲ新法トシ互二其功ヲ競イ、各互ニ之ヲ主張シ其器具卜用法ヲ益々修正シ各精功ヲ盡セリ云々」(「註」仏国名医達非爾:Jacques Daviel)
これは『治翳新法』の冒頭に述べられた訳文の一節であるが、これによるとヨーロッパにおいては2000年来称用された内翳術の○(=てへん+斉)下法に代わつて新内翳術の摘
出法がはじめられたのは19世紀半のことで、ようやく進歩への第一歩が踏み出された感がする。わが国では漢方医家が古くから中国伝来の銀鍼による“そこひ" 治療が行われてきたが、近代医学としての白内障手術が実際に行われるようになったのは、 シーボルト等外
人医師に直接の医術指導を受けるようになってからのことで、それまでは何れも秘伝秘法のベールに包まれた中国医術の模倣で、さして進歩もなかった。幕末に至ってオランダ医学の伝来とともに、各種の講義筆記やオランダ医学書の翻訳が盛んに行われるようになっ
た。
『治翳新法』は19世紀初めに出版されたビスホルンの白内障手術に関する眼科書を、幕末に邦訳したものといわれている。筆者らの所蔵する『治翳新法』(天保6年7月、笠原養菴識)には次のような相伝識語がある。「漢家医往昔ヨリ銀針ヲ似テ横針ヲ施シ以テ内翳ヲ治ス。其術的実ナラス故ニ功験少ナシ、予眼科方法ヲ蘭家二学ビ東都ノ医青地先生ニ従ヒ同門伊東玄朴、坪井信道輩卜共ニ究尽シ小塚原二於テ解剖七躯眼球ニ術ヲ施シテ其理ヲ究ムルコト十三級而後内翳眼之病客ニ実験スルニ或ハ即効ヲ得ルアリ、又ハ速ニ失明スル者アリテ手ニ応ジテ其的徴ヲ得ルコトナシ。此レ不敏ナルカ故ナリ、将テ家續ノ者勉メテ此術ノ奥ヲ得テ以テ家名ヲ耀サンコトヲ希ノミ 天保六乙未七月日 笠原養菴識之」
(改行朱書)
青地先生譯述
天保三年於東都写之 笠原篤養菴蔵之
本書の巻頭に泰西 麻掘田蒲爾觚 独古多児 坡觚詞崘著とあり、その著者がビスホルンであることがわかる。本文は漢字片仮名混合文で、およそ35葉全一冊(235×16.5cm)和綴の写本よりなるが内容は前半23葉に内翳針論について、後半12葉には経験12条、すなわち
第1条・2条: 乳様翳
第3条: 流動翳中二硬核アル者
第4・ 5、・6条: 糊様集結蒻
第7条: 糊様硬結翳
第8条: 硬蒻片分スル者
第9・10条: 硬結翳
第11条: 硬固翡
第12条: 翳ノ「カプセル」虹形後面二附着スルモノ等 について述べている。
青地林宗(名ハ盈、字ハ子遠、芳滸卜号ス)は江戸の人、父快庵は松山侯の侍医であった。安永4年(1775)江戸に生れ、幼少の頃より家学を受け、漢医方を修め、京阪に遊学、文化年代の初め江戸に帰り訳官馬場佐十郎について蘭学を学んだ。また、宇田川榛斎、杉田立卿等を友とし、文政5年命を奉じて杉田立卿(『眼科新書』の訳者)とともに天文台訳官となり蘭書を訳す。天保3年水戸侯の聘によりその医員となる。天保4年(1833)2月病歿した。
また、『内翳針論』なる写本の1本があるが、 この写本の巻頭に、西洋・マーグデブネク・ドクトル・ビュッコルン著述、東洋。日本・肥前長崎。高良斎繹述。1812年鏤行と識されてあり、本文は漢字片仮名混りの和文、73葉、全1冊(27.2×19 cm)和綴である。これは伝記『高良斎』(高於菟三、高壮吉共著、昭和14)129頁に所載の『内障説』と同類のものと思われるが、伝記によれば高良斎が長崎にて蘭人の訳本によって重訳し、内翳針論、乳汁翳針術説等を述べたものといわれる。
この『内翳針論』と『治翳新法』の内容を対照するとほぼ同じで、例えば『治翳新法』に所載の“経験十二条"に相当する部分(項目)は以下のように訳されている。
第1条: 乳汁カタラクタ針法術
第2条: 乳汁翳の針術説
第3条: 堅クシテ曇暗ナルケルンヲ保ツ所ノ殆流動様ノカタラクタノ針術
第4条: ハック状ニテ少ク緊収スルカタラクタ針術ノ説
第5条・6条: 同上
第7条: ハック状二堅ク収緊スルカタラクタノ針ノ経験
第8条: 一種ノ表面内二分賦スル所ノ堅硬ノ経験
第9条: 堅硬ニシテ集着スルカタラクタノ経験
第10条: 堅硬ニシテ収着スルカタラクタ
第11条: 堅ク集着スルカタラクタノ経験
第12条: 虹彩ノ後班卜着スルカツプセル翳ノ経験。
また、両書の前半の部分に記述された手術時の瞳孔散大について両書は次のように訳している。
『治易新法』……「鍼ヲ刺ノ前其瞳孔ヲ濶クスルニ伊沃沙繆ノ溶液ヲ眼中二滴入シ瞳孔濶開スル云々…」
『内翳針論』……「手術ヲ施サントナラバ先始ニヒヨシャミノ溶解水ヲ点滴シテ瞳孔ヲバ廣開セヨ」
とあり、両書の内容はほぼ同じであるが、わずかながら語旬の訳し方や文章の綴り方に差異があり、『内翳針論』の方が詳しく読みやすい。また、原本は1812年の出版とあるが、当時既に瞳孔散大にヒヨシヤミなる散瞳薬が使用されていたことを訳本は示している。
こうしてみると『治翳新法』『内翳針論』(『内障説』)は坡觚訶崘の原著(原著名不詳)から青地林宗、高良斎によってそれぞれ訳述されたものであろうか。
このように本書は19世紀初頭のヨーロッパにおけ○=てへん下法、摘出法および内翳術の経験等白内障手術事情を幕末のわが国に翻訳紹介した眼科書の一つとみることができる。
主な文献 | ||
呉秀三: | 箕作阮甫伝、大日本図書、東京、1914 |
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高於菟三・高 宗吉: | 高良斎、東京、1914 |
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藤井尚久: | 本邦 (明治前日本医学史第5巻の内)、東京、1957 |
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福島義一: | 日本眼科全書、1、日本眼科史. 金原出版 東京、1954 |
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福島義一: | 白内障の歴史から(その12~14)、銀海、No.17~19、千寿製薬、大阪、1965~1966 |
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図1 『治翳新法』 A 表紙外題 新法の術は秘伝の扱いか。 |
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図2 図1同書、天保6年(1835) 笠原養菴の相伝識
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図3 『治翳新法』B 表紙 |
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図4 『治翳新法』 B 巻頭 |
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図5 『内翳針論』 高良斎は”坡觚詞崘” を ”ビュツコルン” と訳したものか。 |
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図6 図5同書 「1812年行」 とある。 |
1987年1月 (中泉・中泉・齋藤) |