研医会通信  238号 

 2025.2.21

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研医会図書館は近現代の眼科医書と医学関連の古い書物を所蔵する図書館です。
この研医会通信では、当館所蔵の資料をご紹介いたします。

今回は 荻野元凱口授の『温疫餘論』です。

 

 

 

 図1 『温疫餘論』  上下巻1冊 写本   荻野元凱:口授  荻野徳與:校正

 

 コロナの流行から数年経ち、最近ではテレビで感染症の情報が取り上げられることは少なくなりました。しかし、電車の中ではコロナ流行以前には見られなかったほどの人がマスクをしていますし、ネットを使った会議も頻繁にありますし、やはりあの流行を機に私たちの生活は変化したのでしょう。そこで、今月は江戸時代にあった「温疫」(おんえき、または うんえき)という病気に対する書物を取り上げます。コロナが「温疫」にあたるかどうかはわかりませんが、従来の『傷寒論』での治療法では治りにくい病に対して、呉又可という中国の学者が『温疫論』という本を著し、それに対する考察を示したのが『温疫餘論』です。

 

 著者の荻野元凱(1737~1806)は、加賀金沢の出身。字を子元、号を台州という高名な医者で、明和7年(1770)頭注をほどこした『温疫論』の刊行に始まり、寛政8年までに同本を4度出版しています。所蔵の『温疫餘論』は写本で、巻頭には文化八年(1811)仲冬の荻野元凱の息子である徳與の序文があります。ウェブで公開されている東北大学の刊本、京都大学と神戸大学の写本と比べたところ、目次の「下後脉浮」という項目が当館所蔵のものだけに無いのですが、本文にはこの項目がきちんと入っており、特に別バージョンという訳ではなさそうです。

 

 本は上下巻が一冊にまとめられており、上下巻の丁数が朱筆で左頁に書かれています。42丁目までが「巻之一」で、「巻之二」は新たに一から丁数がふられ、29まであります。ところどころ丁寧な朱筆で点や文言が加えられており、この本の持ち主が気になるところです。

 

 荻野元凱は『温疫論』『温疫餘論』以外にも、『吐法編』『刺絡編』『麻疹編』という書物を出しています。日本医史学雑誌四〇巻第2号の「山脇東門及び荻野元凱とオランダ医学」(MACĒ 美枝子)によると、奥村良竹に吐方を学び、また江戸参府の途中にあったツュンベリーのところへ植物を携えて会見を求め、それらの薬効を質問し、各種の病気に対するツュンベリーの見解を求めたといいます。西洋医学書を目にした元凱は、解剖の重要性を認識し動物の解体実検を行いました。 ただ、弟子である河口信任に人体解剖を許したものの、『内経』を聖典とする儒者としての立場から、河口信任の『解屍篇』刊行には反対した、というジレンマを抱いていた人物だったようです。

 

 1991年に出された真柳誠の『温疫論』解題(『和刻漢籍医書集成』第15輯所収、エンタプライズ)には山田業広の『温疫論』総論が引用されています。その中に「およそ疫邪の流行には歳運があって、同じ年はない。某年は寒涼がよく、某年は温補がよいなど、年ごとに相違することがある。医を学ぶによく法を守り、臨機応変に基本を守らねば上達はほど遠い」という文言があります。今回のコロナ流行でも私たちはそのウイルスの変異の速さを目の当たりにしており、そのように刻々変わる病に対して、治療法も次々と新しいものを求める医師たちの戦いが、荻野元凱にもあったのだろうと推察します。『内経』『傷寒論』を基本にしながらも吐法、刺絡、西洋医学、温疫論など広く治療法を検討していた元凱の探求心を称えたいと思います。1983年の『漢方の臨床』30巻にある真柳誠氏の「中国に於て出版された日本の漢方関係書籍の年代別目録」には、この『温疫餘論』が「?」付きではあるものの、上海世界書局「皇漢医学叢書」陳存仁編(1936)に『温病之研究』として収載されていることが示されています。時代を超え、国境を越えて医学の情報を集める姿勢は私たちにも必要なのではないでしょうか。

 

 

   図2 同本 元凱の息子 徳與の序文

 

 

 

 

     図3 同本 序文の終わりと目次のはじめ

 

  

   図4  同本 巻之一の最初 本文の所々に朱筆が入る。