2013年 科学技術週間 イベント
この催しは修了いたしました。ご来場、ありがとうございました。
「食養生の本」 (展示会) 江戸の庶民が読んだ食養生の本をみる
研医会図書館では、毎年文部科学省の科学技術週間や教育文化週間にあわせて
本の展示会を行っております。
2013年春 4月15日(月)~ 4月19日(金) には食養生について書かれた本を展示いたしました。
研医会図書館 2013年 科学技術週間 展示会 「食養生の本」 展示リスト | ||||||||
2013.4.15 ~ 4.19 | ||||||||
書名 | 著者・編者 | 体裁 | 年 | |||||
1 | 医心方 食養篇 現代訳付原文 | 望月学 訳 | 昭和 | 51 | 984 | 出版科学総合研究所 | ||
2 | 喫茶養生記 | 栄西 | 全 | 建保 | 2 | 1214 | 雨足院蔵版 見葉書院 元禄7年校、復刻 | |
3 | 増補 日用食性 | 福田松栢 (序) | 巻1-7 | 承応 | 3 | 序 | 1654 | |
4 | 養生記 | 曲直瀬道三 橘玄淵 識 | 延宝 | 6 | 写 | 1678 | ||
5 | 養生俗解集 | 舟横子 述 | 巻上・中 | 延宝 | 6 | 1678 | 太郎兵衛 開板 | |
6 | 増補 日用食性口訣指南 | 曲直瀬道三 原撰 | 巻1,2 | 元禄 | 9 | 1696 | 田中庄兵衛 新井弥兵衛 | |
7 | 本朝食鑑 | 丹岳野必大千里 | 全12巻 12冊 | 元禄 | 10 | 1697 | ||
8 | 食物和解大成(日用食性大成〔題箋〕 | 馬場 某 序 | 上・中・下 | 元禄 | 11 | 1698 | 浪華伊丹屋茂兵衛他 又、保養食物大成 | |
9 | 養生訓 | 貝原益軒 | 1713 | |||||
10 | 巻懐食鏡 巻懐灸鏡 | 香月牛山 | 全 | 正徳 | 6 | 1716 | ||
11 | 食療正要 | 松岡恕菴 | 巻1-4 | 明和 | 6 | 1769 | 平安 小川太左衛門 | |
12 | 延寿養生論 | 曲直瀬玄朔 | 寛政 | 12 | 再訂 | 1800 | 吉文字屋市左衛門 竹包樓 | |
13 | 養生七不可 | 杉田玄白 | 享和 | 元 | 1801 | |||
14 | 長命衛生論 | 浪速凌雲亭主人 | 上・中・下・附録 | 文化 | 9 | 1812 | ||
15 | 養生主論 | 松本遊斉 著 | 天保 | 3 | 1832 | |||
16 | 道三翁養生物語 | 全 | 天保 | 3 | 1832 | 京都 出雲寺文次郎 他 | ||
17 | 養生訣 | 平野元良 | 上下 | 天保 | 7 | 1836 | 櫻寧室蔵 | |
18 | 養生弁 | 水野澤齋 編録 | 上中下 3冊 | 天保 | 13 | 1842 | 江戸 須原屋 他 | |
19 | 幼学食物能毒 | 万年舎亀麿 | 嘉永 | 7 | 1854 | 文会堂 | ||
20 | 無病長寿養生手引草 | 山東庵京山 編、安藤広重 絵 | 上下 | 安政 | 5 | 1858 | ||
21 | 養生法 | 松本順(松本良順・蘭疇) 誌 山内 豊城 校閲補註 | 元治 | 元 | 1864 | 楠陽堂 | ||
22 | 養生新論 | 法末頗曽児 鈴木良輔 訳 | 巻1-4 | 明治 | 5 | 1872 | 尚古堂発閲 | |
23 | 西洋 養生論 | 横瀬文彦 阿部弘国 | 明治 | 6 | 1873 | |||
24 | 四民須知 養生浅説 | マルチンダル著 小林義直・訳 | 上下巻 2冊 | 明治 | 8 | 1875 | 東京 島村利助 他 | |
25 | 啓蒙養生訓 | 土岐頼徳 纂輯 | 巻1ー5 | 明治 | 8 | 1875 | 土岐頼徳 蔵版 | |
26 | 通俗養生訓蒙 | 田中義廉 閲 安田敬斉 編 | 上 | 明治 | 13 | 1880 | 清規堂蔵版 | |
27 | 飲食要訣 | モスト 著、高良齋 訳 | 中篇 | 明治 | 15 | 写 | 1882 | |
28 | 時行病問答一夕話 | 向井養造 | 一名 養生小言 | 明治 | 19 | 序 | 1886 | 掛壷堂蔵版 竹包樓 |
29 | はゝのつとめ | 三島通良 編述 | 親之巻 10版 | 明治 | 22 | 1889 | 博文館 | |
30 | 養生新編 | 細川潤次郎 | 明治 | 43 | 1910 | 細川氏蔵板 |
1.医心方 食養篇(安政版 巻29・30の現代語訳)
原著:丹波康頼 984年 株式会社 出版科学総合研究所 昭和51年発行
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平安時代に編まれた我が国の医書『医心方』の食養に関する部分を影印復刻した本である。使われた本は安政版の筆写体の版であり、現代語訳をした望月学氏は異字や行書体に苦労されたと序文に書かれている。
本文をみると、『黄帝養身経』『陳紀方』『養生要集』『千金方』『七巻食経』『養生志』『膳夫経』『本草』の食禁、『枕中方』、神農の『食経』、崔禹錫の『食経』『博物志』、孟詵の『食経』、嵆康の『養生論』、『病源論』『医門方』『経心方』『葛氏方』『新録方』『録験方』『耆婆方』『小品方』陶弘景の『本草注』、蘇敬の『本草注』『霊奇方』『救急単験方』『如意方』『玉箱方』『樞要方』『慧日寺方』『太素経』という書物の他、孫思邈や青牛道士の言も取り上げられている。当時も多くの書籍が輸入されていたのだろう。
2.喫茶養生記
原著:栄西 1214年ごろ
臨済宗開祖の栄西が著した茶についての本。古来有名な本で、上巻では茶の種類・製法・効用が説かれ、下巻では桑の効用が説かれているため「茶桑経」と呼ばれることもあった。栄西は比叡山延暦寺で得度したのち、南宋に留学し、天台山などを修行して禅宗を日本に持ち帰ることとなった。一度は帰国するが、約20年の後に再び日宋し、臨済宗黄龍派の印可を受けた。帰国して博多聖福寺を建立する。時の権力者、北条政子建立の寿福寺の住職を経て、1202年には京都に建仁寺を建てる。
岩間眞知子氏は『茶の医薬史』(思文閣出版2009年)で、栄西が意図したのは最澄仏法の再興であり、その象徴として茶と桑が薬として説かれたのではないかと述べられていて興味深い。
3.増補 日用食性
福田松栢 序 承応3年(1654)
曲直瀬玄朔が出した『日用食性』という本は、日用食品の食性と能毒について述べ、『諸疾禁好集』(梅寿撰)と『日用灸法』を付したもので、短期間に異版も加えると14回も出版されたという。袖珍版として出され、簡潔な記述が好まれたのかもしれない。この『増補 日用食性』は元の『日用食性』が245種を取り上げていたのに対し、121種を『本草綱目』などから増補して366種について扱っている。それぞれの項目の頭に引用した本草書の略称と上中下品の別を書いている。また『多識編』の和名を示し、異名がある場合はそれも書き連ねるなど、中国本草学の知識を日本に持ってくるための作業を加えている。生活に密着した食物の名は各地方にいろいろな呼び名があり、それを本草書の項目にあてはめるのはなかなか大変な作業であったと思われる。食性の他、曲直瀬玄朔の本同様、『諸疾宜禁集』と『日用灸法』が付されている。
4.養生記
曲直瀬道三:著 橘玄淵:識 延宝6年(1678)
題箋には『初代曲直瀬道三著 養生記』とある。筆写された本で、虫損が甚だしいため読みにくい状態ではあるが、道三の述べた養生についての記述がまとめられている。養生次第3か条、養生誹諧17首、無毒月、世上慎むべき誹諧7首、枸杞湯浴月という少々まじないめいた内容と歌による養生法が書かれた後に天正14年丙戌六月吉日、翠竹院一谿道三とある。さらにその後には『中蔵経』、『千金方』、『素問』、『霞外雑俎』『抱朴子』などの書物から養生についての引用がある。巻末には「第五世道三氏大醫令橘玄淵識」があり、この冊子の元本が松平土佐守のもとにあり、それを写し、堀田備中守の求めで『中蔵経』以下の付録もつけたということなどが書かれている。歌になっている養生法は一般人にも分かりやすいものを広めようとした道三の姿勢を表しており、連歌を里村紹巴に師事していた道三の多才さを生かしたものといえる。
5.養生俗解集
備陽岡山之住舟横子:述 延宝6年(1678)刊
養生について、その方法や心得を説いている。俗解という書名のとおり、漢字には振り仮名がふられ、送り仮名もつけられており、大変読みやすい。それでも李東垣、嵆康、『論語』『玉機微義』など中国の書物を引用してそれをわかりやすく述べている。「日用之心持」には食についての記述があり、少食にすべきとか、「魚肉ヲハブキ 飯ヲ能食シテ 野菜ヲ多用ベシ」などと書かれている。また「食物指合禁物」というページには多くの食べ合わせや食べてはいけない時期についての記述がある。その中には「庭鳥大蒜ヲ忌」(にわとり、にんにくをいむ)という条もあり、現在の常識とはまた異なる説が挙がっているようだ。後半は病気ごとに門が設けられ劉河間や朱丹渓の言葉が引用され、治療に使う灸穴名が挙げられ、食すと良いものと悪いものが記述されている。歯の健康法や溺れた者の救助法まで、いろいろなことが書かれる実践的な書物である。
6.増補 日用食性口訣指南 伊呂波寄
曲直瀬道三:原撰 元禄9年(1696)刊
人気のあった曲直瀬道三の日用食性を使いやすく編集した小型の本である。「伊呂波寄」(イロハヨセ)とあるように、食物が探しやすいようイロハ順に目次に掲載されている。本文は黒丸をつけた項目の後に、「多曰」と『多識編』での和名を振り仮名つきで挙げ、味、主治を示す。その他の書物からの引用もあれば、「異名」を示したり、「今按」と当時の考え方や読み方を示してもいる。「食性一」の項目には野菜や日常の食物もあれば、生薬もあり、また水の種類もいくつか挙げられる。「食性二」は「諸疾宜禁」「諸薬禁物通用」があり、病ごとに食べて良いもの、悪いものが名前だけ書き連ねられている。さらにその後は日用灸法となっており、江戸時代の健康法は食と灸が代表的であったのだろうか。
7.本朝食鑑
丹岳野必大千里 元禄10年(1697)刊
自序によれば、「水を飲み 火を吹き 土を穿ち 穀藷を茹ひ 禽魚を炙りものにし 獣蟲を撰びて 悉くその氣味主治を捜り求ること 凡へて三十余年 漸く大略を得て品類を分かち 曾て古言の餘直?をもって己が志を附く十二巻と輯めて成し 之を目けて本朝食鑑と曰ふ」とあり、著者が李時珍の『本草綱目』や禹錫の『食経』、また『和名類聚』その他諸家の本草書や食に関する書物を渉猟し、また実際に日本の食物を研究してこの本を編んだことが述べられている。元禄5年には書きあげられていたらしいが、出版は子の元浩が岸和田藩主岡部侯の援助を受けて元禄10年に行った。国立国会図書館のデジタルデータも公開されているし、また平凡社の東洋文庫でも出版されており、我が国の有名な食物本草の本として知られている。
8.食物和解大成(日用食性大成・保養食物大成)
馬場 某:序 元禄11年(1698)刊
これもまた、曲直瀬道三の『日用食性』と同様の小型の本。上巻に食物の食い合わせ、毎月の禁好物(食べると良くないものと良いもの)、諸疾禁好物(病ごとの食べると良いもの、良くないもの)が載せられるほか、按摩の図解、灸法がまとめられている。中巻はいろは順に食物の気味やどのような症状に効くのかが簡潔にまとめられ、また、下巻には水、酒、粥、飯、果子糕類、野菜干物、鮑魚(ヒモノ)類、醃魚(シオモノ)類、塩漬魚類、鱠鮓類、菌類、小鳥類、金銀銕(テツ)墨類に分けて、それぞれの食物の解説をしている。銕は「銕醤」と書いて「ヲハグロ」と振り仮名が振られ、犬蛇狼悪蟲に咬まれたるに服するときは毒 肉へ入らず諸々の毒 腹中へ入りたるを解す 漆瘡(うるしまけ)に頻りに洗ふて兪る。時気の瘡を生じ胸中の熱するに飲む」とある。
9養生訓 貝原益軒:著 正徳3年(1713)
益軒84歳の時に出版された有名な養生書である。後記には「右にしるせし所は、古人の言をやはらげ古人の意をうけて、おしひろめし也。又先輩にきける所多し。みづから試みしるしある事は、臆説といへどもしるし侍りぬ。」とあり、以前に『頤生輯要』という本に養生法をまとめたのでみてください、ということも書かれている。食養については巻3と4に書かれており、食べ過ぎてはいけない、と繰り返し述べ、夏に瓜や生野菜や冷たい物を多くとると秋に病になること、つよい薬を飲むことはわが腹中を合戦場にすること、大魚は油が多いので、脾虚の人は多食しないこと、味噌は性和にして脾胃を補うこと、脾胃虚した人は干し大根や蓮根、牛蒡、薯蕷を薄く切って干したものがよいこと、塩、酢、辛いものは多食すべきでないこと、豆腐は気をふさぐので、新しいものを大根おろしと共に食すことなど、細やかなことが書かれていて興味深い。また、黄耆を服す人は酒を飲まないとか、甘草を服す人は菘葉を食べないなどの注意もある。
10.巻懐食鏡 巻懐灸鏡
香月牛山:編 正徳6年(1716)刊
松岡恕庵の序文があるこれまた袖珍版の小さな本である。扉部分には12の分類の目次があり、穀類、造醸類、菜類、菌類、魚類、介類(貝類のこと)、禽類、獣類、水類、果類、瓜類、附録となっている。体裁は先の『日用食性』などに似て、食物の項目の後に気味、主治を収めているが、この分類の順序は独自のものに見える。また、引用している書物は、扁鵲、日華子、張仲景、孫真人、陶弘景、孟詵(621—712)、陳蔵器(8世紀)、成無己(11.12世紀)、李時珍、『別録』、『神農本草経』、『本草拾遺』などとなっていて、江戸初期にあった李朱の名は少ないように思われる。附録としてタバコ、茶が扱われ、また「姙娠婦人食忌」がおかれている。後には『巻懐灸鏡』が附されていて、『医学入門』から引用された灸法について述べられている。
12.延壽養生論(延壽撮要)
寛政12年(1800)再訂 吉文字屋市左衛門(大阪心斎橋)
著者の曲直瀬玄朔(1549- 1631)は初代道三の甥で、養子となり2代目道三となった人物。慶長4年の識語のついた『延壽撮要』と内容は同じである。京都大学や早稲田大学の図書館が公開している『延壽撮要』の画像を見ると前書きの「養生之総論」と後書きの識は漢文で書かれているが、本文はこの本と同様に変体仮名で印刷されている。『延壽養生論』はその前書きもすべて変体仮名であり、識語はない。また、言行之篇、飮食之篇、房事之篇という順番も異なっている。この本もまた漢字すべてに振り仮名がふられており、庶民向けに作られた本とみえる。最初のページである目録のページには曲直瀬道三の印をまねしたのか、壺の形の判が押してある。虫損が激しい本ではあるが、印刷や版の文字は美しく、表紙に使われる紙も型押しの文様が浮き出た凝ったものである。嫁入り道具の一つとして健康法の本を入れた、などと想像がふくらむ。
13.養生七不可
杉田玄白 享和元年 (1801)刊
クルムスの医学書 "Anatomische Tabellen” を翻訳し、『解体新書』として世に送り出した杉田玄白(1733―1817)は84歳まで長生きした人だった。その長命の玄白が古稀を前にまとめたのがこの『養生七不可』だという。内容は、1 昨日の非は恨悔すべからず。 2 明日の是は慮念すべからず。 3 飲と食とは度を過ごすべからず。 4 正物に非(あら)ざれば、苟(いやしく)も食すべからず。 5 事なき時は薬を服すべからず。 6 壮実を頼んで、房をすごすべからず。 7 動作を勤めて、安を好むべからず。というもので、今を大切に生き、贅沢をせず、腹八分にし、努めて運動するなど、現代でも言われているようなことが述べられている。
14.長命衛生論
浪速凌雲亭主人:編 文化9年(1812)刊
変体仮名によって印刷された本で、庶民向けに文化9年に出されたらしい。すべての漢字には振り仮名が振られている。目録をみると、「人の身の貴き叓」「養生にて長命になる道理の叓」「長命養生心得の叓」などとなっている。本文をみると上巻には孫真人、礼記、荘子、龔廷賢、摂生雑忌、万病回春、素問、小学、内経、和漢三才図会、論語、格致余論、蘇子膽養生頌、薬神書中巻には太乙真人、論語、一休和尚、千金方、孟子、大学、詩経、景行録、礼記、曲礼、武王銘、明心宝鑑、長敬夫、老子、三国志、養心志篇、夢窓国師将軍尊氏公エ諌たまいし書、近思録、史記、得一餘訓、下巻も孟子や中庸、小野小町、公任卿、司馬温公家訓、春日大明神、龍田大明神という人名・神名・書名の他、医書曰とか書曰、古語曰、或人曰という曖昧な表現もあり、医書に限らずさまざまな分野の本から引用している。また食い合わせ、毒消し、灸などの情報も載せている。
15.養生主論
松本遊斉:著 天保3年(1832)
校正をした池田東籬亭(1788-1857)は江戸時代後期の読み本作家。御所勤めの傍ら実用書や読み本を書いていたという。巻頭には校正者の池田東籬亭の序言があり、次に「養生主論自序」があり、その署名は松遊斉となっている。いずれの序文もまた本文もすべて変体仮名で書かれ、松本の自序の漢字には振り仮名が振られている。また、巻末には「小澤華嶽子 画図」とあるが、本のところどころに歌と風景人物画が描かれており、見て楽しむことのできる本であったと思われる。たとえば4丁・5丁には「心をば常におさめて しずかにしずかに 身をばほどよく うごかすぞよき」とあって、舟の浮かぶ入り江と美しい松林を望む小高いところに建つ家で、男女が盆を前に飮食をしているような絵がある。元代、王珪の著で、『秦定 養生主論』というものもあり、名古屋玄医にも同名の著書がある。3つの書物はどのような関係なのだろう。
16. 道三翁養生物語 擇善居: 校刊 天保3年(1832)
扉には「雖知苦菴道三翁養生物語」とあり、本文の体裁は「一、」に続く文を並べ、梅窗こと柳生宗矩が問いを発し、曲直瀬道三(雖知苦菴)が答えるという内容になっている。最初は「柳生居士問イテ曰。中年以上ノ人養生シテ何ノ益ガアル哉。」と質問が出されるが、その答えが「死ヲ善センガ爲ナリ。」という。題名に「物語」とつくだけにこの最初の項も、「爰ナ若イ衆タチヨクキキヤレ」と、口語をそのままにして臨場感の演出をはかっているようである。43の項があり、日本人に合った食養生や運動の薦めが書かれ、中国や欧米の真似でない考えを示す。擇善居は『病家須知』を出した版元で、この本の巻末にも宣伝が載せられている。贅言として革谿(病家須知の著者・平野元良=平野重誠(1790~1867))が「人身ハ一元氣ノ運輸ニ頼ル。此氣一タビ欝滞スレバ病トナル。」とし、欝滞を招くものは風寒、飲食、思慮、房欲だと説いている。平野は江戸医学館に学んだ武士だが、日本橋で開業し、町民の健康づくりに貢献した人物。
17. 延壽養生訣 平野元良: 著 上・下 天保(1836) 櫻寧室蔵
訣とは歌のことで、記憶すべきことを簡潔にまとめた文にしてある。『道三翁養生物語』と同じ平野元良の本である。巻頭には嵆康の養生に5つのことがあり、1には名聞利欲の去りがたき、2には喜怒の情、3には好色の心、4には、滋味の口に絶え間なき、5には一切の事の心にかかって忘れ難いということが挙げられ、この5つのことをが胸にある限りはいろいろな養生の術を行っても功はない、と書かれている。食については、病の十中八九が飲食の欲を恣にすることから発するものが多く、傷寒時行病にも感冒にも罹りやすくなるのでまずその血液を再び純粋精微にして巡りやすい身体にすべきと説いている。そして、節度を定めて過不足なく六七分を限りとすると運化がうまくいく、と教える。大きな俵を担ぐには身体の正中と荷を合わせる説明には挿絵も使っている。
18. 養生弁、養生弁後編 水野澤齋:編録 各上中下3冊
天保13年(1842) 江戸 須原屋 他
目録をみると、上巻では胎毒之弁、薬毒之弁、食毒之弁、酒毒之弁、河豚の弁、肉菜能毒、黴毒之弁とある。食毒の部分では、「人身を養う根本は脾胃なり ゆえに脾胃のつよきを無病とし弱きを病人とする 胃の裏面の膜はゆるゆるにして凸凹の皺襞ありて食物が胃に入ればこの皺襞にて擂りつぶす」のだから、少し入れてよくこなれるようにすべきだと述べる。全体には科学的な内容ではなく、老人が子供たちに言ってきかせるような文章になっている。しかし、身体の弱い者は生食を避けるべきであるとか、美食に過ぎず中庸を心がけよというような、現代でもよく言われるような健康法や養生法も説かれている。中巻は病気について、下巻は人相や湯治や茶などさまざまな項目をたてている。また、後編の上中巻では身体の部位別の説明、下巻では養生論が歌とともに書かれ、「萬病一氣之辯」「物我一躰之辯」「家養生之辯」「治験」の項目がある。
19. 幼学食物能毒 万年舎亀麿:著 嘉永7年(1854)文会堂
「序言」では食物の大切さ、粗食の益、美食の損を言い、神農本草、時珍本草、大和本草、食物本草、六八本草、日用食性、和漢三才図会などの書名を挙げている。この本はそれらの書物を参考に食物258種の能毒をひらがなにて記したもの。「目録」には黒地に白抜きの数字を並べ、一の粳米から穀物、豆、芋、野菜、醸造品、果実、海藻、魚類、貝類、鳥、獣の258種類を挙げている。本文は変体仮名で漢字に振り仮名をつけており、一項目2行程度にまとめている。識語には、「右 食物通計二百五十八種 嘉永七甲寅秋 武州高麗郡 飯触中町 万年舎亀麿述」と書かれている。本の最初には書名・著者名・版元の江戸 文會堂の扉と円の中に描かれた神農像の絵があり、また次のページには「東照大神君様報恩之記」というものが書かれている。表紙は双葉葵の模様となっており、徳川家に何か関連する本なのだろうか。
20. 無病長寿養生手引草 山東庵京山:編、歌川広重:絵 上下
安政 5年(1858)
編者の山東京山(1769-1858)は山東京伝の弟。90歳で亡くなる年に出した本がこの長寿養生の手引であったことになる。叔母猪飼氏の養子となって篠山藩に仕えるが8年後に致仕、その後は戯作者として女性を対象にした教訓話のようなものを得意として、歌川国貞や歌川豊広と共に本を出している。この『無病長寿養生手引草』は歌川広重(1757-1858)の挿絵があるが、広重は歌川豊広の弟子であったので、そのつながりがあったのではなかろうか。広重はコレラで亡くなったと言われているが、二人の亡くなった年が同じであるのは同じ病であったのだろうか? 本の内容は上巻には、山脇東洋が描いたような臓器の絵があり、身体の解説をし、また下巻には常識的な養生の心得が書かれ、四季にしたがった養生法、食養生が書かれ、しじみ汁の良さや子供が銭を飲み込んだ時の対処法、子を男子にするまじないなど、さまざまなことが取り上げられる。
21. 養生法 松本順(松本良順・蘭疇):誌
山内豊城:校閲補註 元治元年(1864)楠陽堂
版心に「晋陽軒」の名のある原稿箋に書かれた筆写本である。著者は佐倉順天堂の佐藤泰然の息子である松本良順。幕府ご典医の松本家に養子にはいった。西洋医学所頭取、将軍侍医、幕府陸軍軍医を務め、戊辰戦争も戦い投獄されるが、後に山県有朋らの推挙で初代大日本帝国陸軍軍医総監となり、貴族院勅撰議員ともなった。近代日本医学の礎を担った人物である。本の内容は住居のこと、衣服・寝具のこと、飲食のことという3つの大きなテーマごとに箇条書きでまとめられている。食については肉食を薦め、魚肉もよいが、やはり獣肉にしかず、と述べている。日本紀や古語拾遺まで挙げて、古来日本も肉食をしていた、という説明もされている。また漬物は夏には下痢をおこすとか、甘味は胃腸の裏面を軟弱にして消化を悪くするとも述べており、伝統的な食生活の見直しを提唱しているようだ。他に、西洋医学の栄養学的な言葉の記述も見られる。
22. 養生新編 末頗曽児:著 鈴木良輔:訳 巻1-4
明治 5(1872)尚古堂:発閲
訳者の鈴木良輔の序文には三田䑓町のイギリス医官 法依乙列児氏について学んでいた時に師の友人が持ってきた一書を翻訳せよ、と言われたという経緯が書かれている。原著はイギリス外科大学生理学の教頭 末頗曽児氏が普通学校のために書いた人身窮理の書。訳者の鈴木良輔は「弟幼ヨリ横文ニ従事シ却テ我那ノ文字ニ暗シ故に是ヲ解スト雖譯スル能ハス」と謙遜しているが、師の法氏は笑って「雅言飾文ハ原意ニ遠サカラン」と言ってくれたので、自分は意を決して俗語のまま綴ったと述べている。おそらくはまだ訳語のない状態で、困難があったのではなかろうか。鈴木は山口県の人である。
内容は人種、生理学、公衆衛生、伝染病、医者の論など盛りだくさんである。養生と名づけられてはいるが、むしろ医学書で、挿絵も西洋式の解剖図が載せられている。
23. 西洋養生論 横瀬文彦 阿部弘国 明治6年(1873)
「例言」をみると「本篇米利堅ノ醫学家コーミング氏ノ生理書中ヨリ抄譯セルモノ」とある。人呼吸スル空氣ノ事、通氣ノ事に続き、飲食ノ事が述べられている。飲食の章では乳汁が「滋養生長ニ緊要ナル元質」を含み、「小児成人病中病後ニ甚タ有用」である、と説いている。また「魚」の項目では「肉ヨリ養分少ナクシテ味亦薄シ」と、この本でも肉の方が栄養価が高いという言い方をしている。ところが、次の「牡蠣」の項目では「食物ノ最モ滋味ナルモノニシテ人多ク之ヲ嗜好ス」と牡蠣を絶賛している。さらに次の項目には「喇蛄」として、「ラッコ」「ザリガニ」のふたつの振り仮名をふっている。コーミングがどのような医学者であったのかわからないが、西洋医学もまた、発展途上であったように感じられる。しかし、当時はそれを最先端のものとして受入れたのであろう。
24四民須知 養生浅説 マルチンダル:著 小林義直:訳 上下巻2冊 明治 8(1875)東京 島村利助 他
『弗氏生理書』(ホッチソン生理書・Joseph Chrisman Hutchison)を訳した小林が、より初学にわかりやすい本を作りたいと感じて、翻訳したのがこの『四民須知 養生浅説』である。原著はアメリカ・フィラデルフィアのマルチンダルの『解剖生理及び養生説』。食養については、第5節で取り上げられ、34の項目が収められている。内容は蛋白質を多く摂取すべきこと、寒冷地の人は脂肪を多く摂取すべきこと、乳汁に栄養があること、消化のよい食物や消化しやすい調理法、またお茶の効用、豚肉の生食の危険性、成長に必要な栄養のこと、食欲を増す過ごし方など、今では常識となっていることが多いが、初学者向けの本なので、丁寧にわかりやすく説いているのだろう。パンは裸麦より小麦のものが消化によい、などと細かなことも書かれている。
25啓蒙養生訓 土岐頼徳:纂輯 巻1ー5 3冊
明治 5(1872)土岐頼徳 蔵版
この本の編集をした土岐頼徳(1843-1911)は、日清戦争後日本が統治していた台湾の陸軍に軍医として着任し(明治29年=1896)、軍内で流行していた脚気は白米飯が原因であるとして、麦飯に変更させた。しかしながら、当時の陸軍軍医総監である石黒忠眞は脚気病原菌説を採っていたため、これと対立し、土岐は存在自体も消されるほどの扱いを受けたという。この本はそうした脚気騒動の20年以上も前に出版されたもので、「ひっちこっく」「かつとる」の解剖生理養生論を本とし、「すみす」生理書、「ぐれい」の解剖書、「か阿ぺんとる」の生理書の中から集めた養生の知識を抄訳した、と凡例に述べている。ところどころに挿絵もはいり、これもまた一般人の衛生や栄養の知識を増やすために作られた本のようである。この時点では麦飯の薦めなどは書いていない。養生訓と同じ書名ではあるが、貝原益軒のものとは全く異なる人体解説書のような本。
26通俗養生訓蒙 田中義廉:閲 安田敬斉:編
明治13年(1880)清規堂蔵版
目録をみると、1養生学の目的、2空気の効用、3不潔空気の害、4呼吸器及び心臓の作用、5蒸発気及浴湯、6衣服の注意、7衾褥及睡眠の注意、8食物の営養、9飲食物の滋養成分、10血液の聚成、11住居、12運動、13眼の摂養、14精神の保護、15本心の命令に従うべし 16前論諸條の応用、17気絶人の救助法 となっている。現在のヘルスケアの本とはだいぶ異なる内容で、昭和の時代の家庭科の教科書のような内容である。凡例にもこの本が修身の説に係るような内容となっていることに触れている。「体躯ハ精神の動静によりて健否を来すこと多かれば、精神を修治して常に快楽ならしむ」
と述べている。食養生の章では朝晩は味の淡泊なものを食べるとよいとか、食後すぐに眠ったり激しい運動をするのはよくないが、庭園を散歩するのはよい、などということが書かれる。また滋養成分の量をまとめた、として食物成分表を載せている。
27 飲食要訣 モスト:著 高良斎:訳
明治 15年(1882)
端正な文字で書かれた写本である。表紙にも本文にも書名も題名も識語もない。本文は墨文字で書かれているが、赤字で修正の筆を入れられている。5か所に「高斎按」「良斎按」の頭注がある。「女学館」とすべきところを「女栄館」としたり、「感冒」とすべきところを「感胃」とするなど、写したものはまだ初学者であったのだろうか。高良斎(1799-1846)は阿波の生まれで眼科医高錦国の養子となった。文化14(1817)年長崎に留学し、吉雄権之助に師事、シーボルトにも西洋医学を学んだ後、大阪で開業し日本眼科学の基礎を築いた人物と言われている。
28. 時行病問答一夕話 一名 養生小言 向井養造:著
明治19年(1886)序 掛壷堂蔵版 竹包樓
この書のとびらには浅田宗伯先生 叙文、福井貞憲先生 跋語 校閲、山崎隆叔先生 序文、向井養造 著とある。巻頭に「養生小言序」として浅田宗伯(栗園)の序文があり、「明治十九年丙戌秋八月 明宮尚薬奉御浅田惟常識此甫譔」と記している。明宮は大正天皇のご幼名で、浅田宗伯は侍医を務めていた。序文の次には「暴瀉因飲食非臭毒説」という文章を書いている。長崎から猛烈な勢いでコレラが蔓延したが、中国人には感染者がなく、この要因が、日本人のように生水を飲まず、生食をしないことであると述べている。本文「時行病問答一夕話」は浪華 向井養造とし、養生篇と題す。貝原益軒や皇甫謐、『千金方』などから引用した養生の心構えを説いている。またチフス、コレラ、マラリアについても言及し『傷寒論』、『外台秘要』『温疫論』を引いている。橘泉が問い、九山先生、隆叔先生が答えるという形式にしてまとめられている。
29. はゝのつとめ 親之巻 三嶋通良:編述 10版
明治 22 1889 博文館
赤いとびらには「文部省学校衛生主事 醫學士三島通良 編述」とあり、明治の中ごろに国家が国民の衛生観念を向上させるために企画した本かと思われる。この本も第十版なので、広く読まされたのではないだろうか。巻頭には濱田玄達という人物が三嶋に宛てた手紙の形で賛辞を掲げているが、未だ女性の健康について考えられていなかった時代に、国家富強には健康な国民を増やさなくてはならないと、母性の保護をめざした明治政府の姿勢は評価すべきである。内容はミュンヘン大学やライプチヒ大学の産科学やヴュルツブルグ大学、ベルリン大学等の小児科の教授ら、賀川玄悦、香月啓益の著作を参照して書かれている。食に関しては「産褥」の章で扱われ、消化の良いものを食べるよう、薦めている。また、卵を薦めたり、牛乳もいつ飲んでもよい、としている。この本には子の巻もあるが、食に関する記述はない。
30. 養生新編 細川潤次郎:著
明治 43年(1910) 細川氏蔵板
「今年七十七」になる細川十洲先生は「博学洽聞」で、和漢洋学の説を融合してこの書を著したという。自序には自らが幼少時から多病で「医士に交り」また、種々の本を読んで養生の心得となるべき事を探したので、これらの諸説を集めて『養生新論』を作った、とある。総論、衣服、飲食、居所、睡眠、運動、沐浴、疾病、産育、老態の10章で構成されている。食については食べ過ぎないように、饗宴に預かった場合は次の食事の量を控え、食物が停滞しないようにと注意している。若い者はたくさん食べてもよく、また老人も「胃の飽満は避くべきことながら一概に少食すべきものに非ず」とも言っている。食べ合わせについては確認しがたいことは多いが禁忌を破らぬが安全という。『養生訓』を引き、「老人病あらば まず食治すべし 食治応ぜずして後 薬治すべし」とし、食物の研究はさらに深められるべきであろうと述べている。